団塊ジィジの日々是好日

つれづれに書くエッセイと出来事ブログです

厳しくもあり笑いも有り  (74年の人生で喜怒哀楽を教えてくれた父)

【雑記・雑学・雑感】 35) 
書き始めて今回でブログは、50話目になります。
これまでちょっとした父の事は書いてきましたが、今回は父の厳しさと笑いなどについて書いてみます。
何事にも厳しかったというのが実感ですが、一つ一つの事を改めて思い返すと、笑いもあり又、思いやりも深い親父でした。 

では、厳しかった父の事から---

(目次)
1.  厳しかった父の事  
2.  電機学校の今昔  
3.  笑いと10年戦争

 
1.  厳しかった父の事 
私が小学校から帰ってきて、ひと呼吸ふた呼吸 置いた後、「もう一回学校へ行ってこい!!」 でした。 そうです、家に帰り “ただいまー” と言わなかっただけで 「もう一回学校へ行ってこい!」  でした。 
又、食事中に居眠りでもしようものなら、「ドン」と食卓を叩き 「もう食べなくていい!」でしたし、いたずらが過ぎると家の柱に縛られたりと、礼儀や挨拶などしつけには厳しい父でした。
現在では考えられないような出来事が、明治生まれの父を持つ我が家のそれが、日常でした。

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2.  電機学校の今昔   
父は旧制中学を出て、上京し電機学校(現在の東京電機大学)に通っていたようです。
電機学校は、1907年(明治40年)に設立され、電機雑誌『オーム』を創刊するなどし、最新の電気・機械を第一線で扱える技術者を養成する学校でした。
その設立趣意書には、要約するとこう書いてあります。
「工業普及を図る教育を施す為に私立電機学校を設立し、昼間に職業を持つ青年子弟のために夜間授業の方法を取り、実用と且つ速成とにより国家有為の技術者を養成し、電気及び機械工業の隆盛を企図する。」 と書いてあるように大学のようなエリート研究機関では無く、実物実地教育で工業の発展を目指した学校の様でした。
そして、現在の東京電機大学は、100周年を過ぎ歴史と伝統を有する理工系総合学園として今日に至っています。

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3. 笑いと10年戦争 
厳しさばかりの父の別の一面としては、バイクで転倒し入院した時に同室の年上のお爺さんとのやり取りがあります。
病院の近くにデパートが新しく出来、そのお爺さんはデパートに行く事になりました。
私の父が、お爺さんにその時言った一言です。
「デパートに行ったら、階段のような乗り物(エスカレータの事)があり、乗る所に女の人がいるので、それに乗る時には、ちゃんと"お金"を渡してから乗らないとダメだよ。」 と、
そして又「乗る時は、ちゃんと"靴"を脱いで乗るんだよ。」 と言い、お爺さんは、それを素直に信じデパートに向かったとの事でした。
東京で学生時代を過ごした父は当然エスカレータの事は知っていましたし、この"お金"や"靴"の事は、入院時の戯言として同室の方に言うような笑いの一面も持っている様でした。
こんな父でしたがやっぱり厳しく、私達の間(父と私)には、10年戦争?がありました。
東京で家内と知り合い、本人紹介に父の所に行くと、会っても中には入れてくれませんでした。(嫁は田舎から貰え! です。)
そして父に無断で結婚するまでが、戦争?前半の 5年間でした。
それから父は結婚式にも出ず、子供が出来た事も知らずの戦争?後半の5年間が過ぎました。 
父譲りの頑固さを持つ私でしたので私達の間には、この10年戦争?がありました。
この10年が過ぎ、父がガンで声帯を取り筆談でのやり取りとなった頃、突然 「嫁と子供(孫)を連れてこい」 とメモ紙に父が書き私に見せました。
早速、家内の両親と嫁(家内)と子供(孫)を連れて病院に行きました。
家内とは10年前の出会い以来2度目、両親と子供(5歳、2歳)とは初めてでした。
そして、その出会いから1週間後、妹から連絡がありました。
父は自分の心の整理をし、私にその後に悔いを残させない様にとの配慮をし、旅立ちました。
歴史にも残るような台風の年(1911年/辛亥)に台湾で生まれ、戦争を挟んだ波乱の世を活き、戦後は一井の電機修理技術者として私達家族を支え74年の生涯を終えました。
私ももうすぐ父と同じ年になります。 “厳しさと笑い”が持てるでしょうか。
でわでわ

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